死。その後あなたはどこに行きますか
お経が長く続いている。――葬儀をしています。
お坊さんは黙って、近くに座っていた遺族に軽く会釈すると、再び、長くお経を唱え始めた。
長い長いお経――誰もみな頭をたれて一言もしゃべらない。
棺の中には中年の女性が横たわっていた。白い装束で。
もう何も語れず、生き返ることもない。
――部屋を見回すと、部屋の隅に誰かいる。
――この人だわ。
力なくただ悲しそうに、隅っこに立っている。
そのそばを子どもが通り、続いてお母さんが通った。
――誰も気づかない。立っているのに、そこにいるのに、誰も目に留めていない。
それで私のそばにいた人に「あそこ」と指をさして教えると、
その瞬間、姿は見えなくなり「何?何?」と聞き返された。
すると、霊は私のすぐ近くまで来て「私が見えるの?」と聞いた。
「見えるわ。あなたは何故死んだの?」
私が尋ねると「死んだ?私が死んだの?」
「死んだ事、覚えてないの?だって、ほら、体があそこにあるわ」
「知ってる…。入ろうとしたけどダメだったの。私の体なのに!死にたくなんてなかった!!戻りたい!!もとの体に!!
どうやったら入れるの?!あなたは知ってる?」
「無理だわ…。だって――迎えが来てる…」
涙が私の目から、たくさんこぼれ落ちた。
こわくてこわくて、体中がガチガチ震えて涙が止まらない。
彼女を迎えに来た者は、暗闇の支配者たちの使者、その姿は恐ろしく、叫び声も背すじが凍りつくよう―。
霊はつかまり、飛びかかられて、あっという間に引きづられて行った。
暗闇の霊たちが支配する国へ。
(わが子よ)
イェスさまが来られました。
私の心臓はまだ高鳴っています。
あまりにも恐ろしかったので、その場に凍りつくようにして立っていました。
ただ、涙だけが溢れて流れていました。
(娘よ。あなたに見せたのには理由がある。伝えなければならない。
同じような目にあわないためにだ。
終わりの時代が色濃くなっていく中で、人々は憂え、また心配している。だが心配したところで、どうにもなるまい。
事件は日々起こり、事故も災害も止まる事なく起こり続けているからだ。
さあ娘よ。見てごらん)
再び葬儀が――棺のそばに立ち、一人一人が最後のお別れをしている。
葬儀が終わり、棺は運ばれて行った。
あそこに立っていたのに――もうそこにはいない。この世には彼女はいない。
霊は旅立ってしまった。永遠に。もう戻る事がない。
かわいそうに。家族が泣いているわ。でももっとかわいそうなのは、あの女性だわ。
あんな所に行くと、もし知っていたら、きっと違う生き方をしたはずだわ。
死んだらやり直せない――もう終わりなんだもの。もう永遠にチャンスはない。
生きている時にだけ、誰にでもチャンスが与えられている。
(わたしが道である)――と言われたイェスさまについていかなければ、天の御国には入れないわ。
あぁ、こわかった。あまりにもこわかったわ。天国に入ってほしかった。
迎えに来たのが、光輝く天使だったら良かったのに。
<マタイ16:26>
『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。』
まだ耳について離れないわ。彼女の叫びが。
サタンに飛びかかられた彼女の叫びが、耳から、この心から消えないのよ。
サタンは地獄へと引いて行こうとしている。
一人でも多くのたましいを。
地獄の火の中へ、滅びの中へ連れて行こうとして、必死に地上で働いている。
人の目にそれが映らなくてもこの地上で、苦しみ、混乱、破壊が絶えないのは、人の心に強く働くサタンがいるから。
イェスさまが再び来られました。
(娘よ、終わりの時代だ。
これからもあなたに強く臨んで、あらゆる事を見せ、知らせ、語っていこう)
<黙示録3:18〜19>
『わたしはあなたに忠告する。
豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。
また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。
また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。』
<黙示録21:8>
『しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、
魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』
(この時代、わたしは多くのしもべ達を遣わして語る。わたしを信じて救われよ。
しかし、偽り者も世に多く出よう。
すでにもう多くの偽りを語る者どもが世に出て、多くの者たちを惑わし地獄へと導いて行った。
見分けよ。救いの正しい道を見極めよ。救いの正道は多くはない。ただ一つである。
救われよ。わたしを信じて救われよ。)
<マタイ7:13〜14>
『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』
(世にたくさんの宗教があろうと、死んだ時、その霊を自らの国へ引き立てて行こうとやって来る暗闇の者たちから守れる者は、
ただ神の霊、神の御使い、光の使者だけである。
わたしを信じて救われている者たち、その者たちを天使たちが暗闇の霊どもから守るのだ。
――その時、どんなに叫んでも助けが来なければ必ず引いて行かれる。
永遠の暗闇に行くしかない。
クリスチャンたちも用心していなさい。主は戸口に立っておられるからだ。
主よ主よと呼ぶ者がすべて天の御国へ入れるのではないということばを、心に留めて、日々励む者になりなさい。)
<マタイ7:21〜23>
『わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。
「主よ、主よ。わたしたちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。
「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
救われているからと、のんきに眠っている者、眠りを愛しむさぼっている者、
自分に死にわたしに従って来ようとしない者たちの、行く末はどうなるのか考えなさい。
みことばを知ってはいても従って来なかった者たち、
主人の心を知りながら その御心通りに歩まなかった者たちが、必ずさばかれる事を心得ていなさい。
人はうわべを見るが、わたしは心を見る主である。
羊と山羊、麦と毒麦のたとえを、みことばから知りなさい。
あなたは、今どうであるのか。
心に留め、悔い改めるならば自分のたましいを守る事になる。
今は恵みの時、救いの日であるが、終わりの時を刻む音は大きくなってきている。
わたしを恐れて、心から従いなさい。
〜羊と山羊のたとえ〜
<マタイ25:31〜46>
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、
人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。 彼は羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、
わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、
わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、
わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、
わたしをたずねてくれたからです」。
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、
渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、
裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」
すると、王は彼らに答えて言います。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。
「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、
病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」
そのとき、彼らも答えて言います。
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、
牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」
すると、王は彼らに答えて言います。
「まことに、おまえたちに告げます。
おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
〜麦と毒麦のたとえ〜
<マタイ13:24〜30>
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。 ある人が、自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。
「ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。」
主人は言った。「敵のやったことです。」
すると、しもべたちは言った。「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」
だが、主人は言った。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」
<マタイ13:36〜43>
それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。
すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして刈り手とは御使いたちのことです。
ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。
耳のある者は聞きなさい。