【東大阪市にお住まいの皆さまへ】
近鉄 八戸ノ里駅・徒歩3分の 八戸ノ里キリスト教会 です

あなたの信仰生活は大丈夫?

イエスさまの手がのばされています。


喜んでその手におすがりすると――それまで私は主の足元にひざまづいていたのですね。

主は私にこうお話になりました。


≪行こう≫


――はい……。


イエスさまと並んで歩くと真っ白い道がゆるいカーブを描いてありました。
真っ白い道ね。人がポツン、ポツンと先を歩いています。
私たちは先を歩いていた1人に追いつきました。


≪どこへ行く途中ですか?≫


主がおたずねになると――その人は
「天国への道を歩いているのさ。でも収穫のためのカマはご覧の通りサビてしまって使い物にならない。
どうしたらいいものか?!」


困っている男に、主はこう言われました。
≪さびたカマ――確かに使い物にならないな。わが子よ、あなたはどういう者か? どうやってわたしに仕えているのか?言ってみなさい。≫


「私はお決まりの信仰生活です。型にはまった信仰生活を送り、今まで生きてきました。
教会には救われる人も少なく、私の伝道方法はトラクトを配るだけです。
誰かに構わず同じトラクトをおくり続けてきたので、どうせ救われないだろう。そう思って渡してきました。
心のどこかでは伝道は難しい。


日本って国は、昔から外国の宗教を受け入れないものさ。
私一人が頑張ったって、大したことはできない。――そう思っていました。」


主はため息をおつきになりました。


≪あなたはわたしを本当には知らないものだ。
盲人が盲人を手引きしたら二人とも穴に落ちるのだと書いてあるだろう。
あなたは悔い改めてわたしを知る者になりたいと心から願いなさい。それからわたしに近づきなさい。≫


――男の人は黙ってしまい主のことばの意味を深く知ろうとしてさらに尋ねました。


「私が間違っていたんですか?私の一体何が違うのですか?
教会ではこれ以上の事は教わりませんでしたが、牧師も長老も信徒たちも同じように過ごしているのに、
なぜ、私にだけ厳しい事を言われるのですか?」


≪息子よ。悔い改めなさいという事があなたにとって厳しい事だろうか?


あなたは本当にはわたしを知らないものだという言葉があなたを傷つけたとしたなら、
それはただのつまらないプライドに対してだ。


あなたが天国への道を歩いていると語ったがわたしから見ればそれは十字架に従う自己否定の道ではない。
単なる宗教の道だ。キリスト教は単なる宗教ではない。わたしは道であり、いのちであり、光である。
なぜ光の方に来ようとしないのか?


ヨハネの福音書にでてくる通りに
「人々は光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて光のほうにこない」


あなたはクリスチャンといえども盲人だ。しかも自分はよく見えると思っている者だ。


また、自我を殺さず、かえって生かし、楽な道を歩く者である。悔い改めよ。
なぜなら裁きは神の教会から始まるからである。

さぁわが子よ、行こう。≫


イエスさまは私の手をつかんで、サッサとその人を残し行ってしまいました。


振り返ると、その人はうつむいて石をけっています。

「自分の信仰生活は何だったんだ。
わたしほどまじめに信仰生活をした者もいないのに……。」

主のことばが気にくわないのです。むしょうに腹が立ってきました。


「私はこれでいい。誰にも責められるようなことはやってない。
私は正しい歩みをしてきたんだ。さぁ、いらぬ事を考えないでサッサと歩いていこう、天国への道を。」


見回すと、前の方に自分の教会の牧師がおり、長老、信徒たちがいます。
「大丈夫、私は間違っていない。今さら、何か変えることなどできようか――」
その人は再び歩き始めました。でも足取りは重いです。


≪わが子よ。≫――はい、主よ。何でしょうか?


≪教会に集いながら わたしを知ろうとしない者は多い。
彼らは宗教としてとらえ、自己満足を求めている。
だれがパウロのように自分を打ちたたいてしたがってくるだろうか?≫


――わが主よ。このしもべもそのような者でした。
しかし、この教会で教えられ、訓練を受けて私も真理を知りました。
主よ、真理は本当に人を自由にするのですね。


≪さぁ、娘よ。行こう≫


主は再び私の手をとって歩きます。
今度は誰にも声をかけず、おしだまったまま人を追い越して行かれます。


あるおじいさんの所に来ました。
「わしゃあ疲れた」そう言って杖を片手に石に腰をおろしていました。
この人には主が見えていません。私だけ見えるようです。

「あんた、どこまで行きなさる?」と私に聞きました。


「若い者は良いのう。わしは長年、天国に憧れて歩き続けてきたが、天国は遠いのう。
わしは入れるじゃろうか?年をとればとる程不安になってきた。どうしてじゃろう?
イエスさまを信じるだけでいいと聞いてきたがこの年になると心に不安がよぎるのじゃ。本当にお迎えにきてくれるのかと。」


――どうしてこの人にはイエスさまが見えてないのかしら?
目の前にいて声を聞いておられるのは主なのに。
イエスさまは、私に合図してこう語れとおっしゃいました。


「あなたに天国に入れる確信がないのなら、それはなぜかと考えた事がありますか?」


「わしは好きなように生きてきたんじゃ。みことばもろくに読まずに、
ただ救われただけ――じゃな。だから不安なんじゃ。こんな者でも天国に行けるのかい?」


私は主を見ました。主はこうおっしゃいました。


≪あなたの信仰があなたを救うと、わたしは語ったのではないか。
信仰抜きで、どうやって天の御国に入ろうとするのか。
主よ、主よと呼ぶ者がみな天の御国に入るのではないと わたしはそう書かなかったか?≫


「――今からでも間に合うじゃろうか?」


「遅くはない。気付いて立ち返るならその時がチャンスなんだよ。」


私が伝えるとその人は「分かった」と言いました。


≪心のやわらかい者は幸いである。娘よ、覚えておきなさい。
あなたはこれから多くの人々に出会っていく。外観ではなく、心を見るがよい。


心はどうにも隠すことができない。わたしが心を教えるからだ。
人の目には見えないものを わたしが見せ、聞かせていく。ならばどうして隠しおおせよう。≫


幻と啓示〜天国と地獄〜
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