【東大阪市にお住まいの皆さまへ】
近鉄 八戸ノ里駅・徒歩3分の 八戸ノ里キリスト教会 です

こころみに会う理由

【ルカの福音書4:1-3】
さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、

四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」


これは悪魔の誘惑、極限に飢え渇いた時にやってきた誘惑。

あなたがたが もしキリストを信じ 神の子どもとされたのなら、間違いなくこれと似た誘惑がたえずやってくるはずだ。


すなわち、石をパンに変えることは出来なくとも、あらゆる時に自分の望むままに、自分の欲望を満たす誘惑だ。


この誘惑に勝利出来ずにいるクリスチャンは何と多いかわからない。

自らの欲しい時に、祈りもせずに欲望のままを行う。


自ら手を出しておきながら、その結果が悪いと神に文句をつける。

“どうしてこんな事になったんですか!”と 神に怒りをぶつける。


考えてもみなさい。
自らが欲望に負けて手を出しておきながら、結果が悪いと神に文句を言い、結果が良ければそのまま神とは違う道を歩く。


世の人々と全く同じように過ごしながら、困った時だけ神に頼り、自分本位な生き方をしている者たち。


その人々はこのみことばを知らない者たちだ。


【ヤコブの手紙1:13-15】
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。


【ルカの福音書4:5-7】
また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、

こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。

ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」


                          

この誘惑はルカの福音書に出てくる2つめの誘惑。

しかし これもクリスチャンである人々にも、そうでない人々にも同じようにやって来るのだ。


すなわち、これがサタンの誘惑であって、その人の内にある欲望をすべて知るサタンは、人の前に甘い甘い誘惑をぶら下げておいて、目と心に強く揺さぶりをかける。

欲しいものが手に入る。それも、ただこうするだけで。


心の欲するままに生きている人間は、この誘惑が来ると 迷うことなく飛び込み、 そこに自分のただ1つのたましいが、かかっていることを知らない。


【箴言7:21-23】
女はくどき続けて彼を惑わし、へつらいのくちびるで彼をいざなう。

彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、

ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。


【ルカの福音書4:9-12】
また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂きに立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。

『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」

するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」


あなたたちに起こってくる3つめの誘惑は、誘惑と思わない者たちもいる。

「これが誘惑?クリスチャンならば神のことばに従うのは当然でしょう?」と。


それならば、実際 神が示してもいないみことばを勝手に探して 自分のものとし、「神が祝福してくれると言ったのに何故そうしてくれない?」


または、勝手に呪いのことばを取り出して、自分に当てはめる者がいる。

みことばを勝手に取り出して、人々にあてはめ、神がそう思ってもいないのに、みことばで人を責めたてる者たちもいる。


みことばを人の心を刺す剣として用いる者がいるのだ。


人を裁くあなたは一体何者なのか?


人にとって自分にぴったりのみことばが与えられるならば、それは“時宜(じぎ)にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのよう”(箴言25:11)である。

その価値は はかりがたい。


みことばは正しく用いるならば、たましいを生かし、永遠のいのちへと続く道を指し示してくれる。


みことばを正しく解釈してくれる良い教会が大切だ。

人のたましいを導く大切な働きを、神からおおせつけられて彼らはしているからだ。


良い実を結ぶ良い教会は祝福を受ける。

必ず実を見て、そこにとどまりなさい。


すなわち、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制で ある。


終わりの様相が去年よりもさらにはっきりとしてくる中で、誰かがよりどころを 求め、教会の扉をノックするならば、神の恵みがその人に豊かに注がれるように。


【ルカの福音書15:10】
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。


警告のラッパ
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