悔い改めと聖さ
教会への登録、教会出席、聖書知識、担任牧師が永遠の命を与えてくれると間違って信じている人々がいます。
それは事実とは違います。
皆さんは生まれ変わらなければなりません。
永遠の命を得て天国へ行くためには 神の子どもにならないといけないです。
イエス様と親密な交わりを通して新しいいのち、永遠の命を得ることが出来ます。
イエス様以外、誰もそれを助けることは出来ません。
ある教会に所属したことで、イエス様と親密な関係になることはないです。
それは何の関係もありません。
皆さんの聖書知識が天国に入るのに決定的な助けにもなりません。
イエス様が皆さんを知り、皆さんもイエス様を知らないといけないです。
多くの人たちが聖書を歴史書のように知り、いろいろな箇所をよく引用します。
しかし生まれ変わっていません。
彼らはイエス様のこともよくわかっていないのに、受け入れる告白の祈りをしただけで生まれ変わったと思っています。
しかし彼らはイエス様のこともよくわかっていないし、イエス様との関係性も持ってないです。
「私の羊は私を知り、私も私の羊を知っています。彼らは私の声を聞いてついて来ます」と仰せられました。
イエス様は生まれ変わった人たちに聖霊を注ぎます。
その人はいつもイエス様と会話します。
イエス様の声を聞いて従い、イエス様が喜ぶことをします。
彼らは聖霊の導きに従います。
皆さんの教会所属、出席や聖書知識は何の関係もありません。
重要なのはイエス様と皆さんが互いに知っていることです。
皆さんはイエス様に出会って生まれ変わりましたか。
皆さんはイエス様と親密な関係でしょうか。
それともただの教会出席者ですか。
聖書を知っていますか。
それとも聖書にあるイエス様を知っていますか。
聖書を読むのも昔の人たちがどのようにイエス様と共に働いたのか、聖霊の導きをどのように受けたのかを知るだけのためです。
聖書も 彼らのように私たちもイエス様と親密な関係を持つように勇気を与えます。
しかし彼らのように私たち自身がイエス様を知らないならば、何の役にも立ちません。
そうすると救いもなく失われた魂になります。
イエス様を知らないといけないです。
ひざまずいて「主よ。私も主を知りたいです。知らせて下さい。」と祈ってみて下さい。
そして罪を悔い改めて下さい。
その方が答えて下さるまで、主に泣きながら主にすがって下さい。
神が生きておられることを悟るまで すがって下さい。
そして主に出会うならば、みなさんの心は変わります。
過去のすべての罪を洗って下さり、皆さんを新しい被造物にして下さいます。
すると神の子どもになれます。
そのためにイエス様に人格的に会って親密感を持たないといけないです。
毎日聖霊の導きを受けて、イエス様の道を歩まないといけないです。
人生の最後の日まで。
罪を繰り返しながら教会に通うことは出来ません。
聖書の箇所を引用しながら「私は聖書を知っているから救われた」と思ってはいけないです。
人が助けることは出来ません。
神学校を3年間通っても神を知らないならば、彼らは教会の働きは知っているかもしれませんが、イエス様は知らない人です。
イエス様を知らないとイエス様はその人を導くことはしません。
自分がイエス様に直接会わなければなりません。人に頼らないで下さい。
神の前に出て、神に会うことを切に求めて下さい。
天国の平安が来るまでに、生きておられる神に会ったという確信が来るまでに神を求め祈って下さい。
そして人生の終わりまで主を求め続けて下さい。
もし皆さんがイエス様を知らないと、イエス様も皆さんを見て「私はあなたを知らない」と言います。
あなたはイエス様を知っていますか。救いは保証されたものではありません。
イエス様は永遠の命を約束しました。
しかし私たちはイエス様と共に忍耐しながら、イエス様に従わないといけないです。
私たちが悔い改め、水のパプテスマを受けるとイエス様は賜物として聖霊を与えて下さいます。
そして私たちが主に属する者だと印を押して下さいます。
しかし私たちがイエス様から遠く離れ、従順しないならば、永遠の命は私たちのものではありません。
私たちは最後までイエス様とともに歩まなければなりません。
私たちが主の外にいる時に、戸が閉められるならば 私たちは失われたたましいになります。
私たちは最後の瞬間までイエス様のそばで、その方と共に忍耐しなければなりません。
多くのクリスチャンが地獄に落ちて行きます。
なぜなら彼らは最初からイエス様に従ったたましいではないからです。
大体の人は自分の救いは確定されたと信じています。
そんなものはありません。
イエス様は私たちを罪から贖い、罪から自由にします。
そして私たちを神の子どもにして下さいます。
しかし子どもは従順する子どもでなければなりません。
最後まで信仰の道を歩みながら従順しなければなりません。
そして神の戒めも守らないといけないです。
そうしないと、救いと恵みを無意味なものにすることになります。
悔い改めもなく、汚れたまま罪の道を歩む者に、主が聖なる神の国に入れるわけがないです。
そこは彼らにふさわしい場所ではないからです。
救いの保証があると思い、好き勝手に歩むことは、救いを受けた人の態度ではありません。
イエス様のことばです。
【マタイの福音書7:13-14】
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
救われた人たちが狭い道から離れ、広い道に戻ることは滅びに向かうことです。
滅びの道を歩む者に救いの保証はありません。
主に従いながら狭い道を歩み続ける人に救いの保証があります。
【ピリピ3:12-16】
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
最後までイエス・キリストに従う者になりますように 主の御名によって祝福を祈ります。