
第4課・嘆きと願い
主の言葉を信じて従順する生活が 人生の真の目的であることを発見した詩人は、本文では自身の現在の状態を見ながら、悲しみの涙を流し回復を求める祈りをしている。
【 詩篇119:25 】
私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのあるとおりに私を生かしてください。
自分のたましいが死んだ状態のように 苦しんでいることを強調している。
まるで墓の中に閉じ込められた者のように 生きる望みもなく、生きるのも辛いことを語っている。
自分の生活が腐敗していることを嘆いていた。
【 詩篇119:26-28 】
私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。
あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。
私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。
たましいに迫る苦しみで、まるでたましいが涙を流している状態である。
そして深刻な霊的苦痛によってすべての意欲を失ったように見える。
そのような状況の中でも人間的な方法で問題を解決しようとせず、自分のあやまちを告白しながら主のみことばを通して苦しみを乗り越えようとしている。
詩人は神が助けてくださるまで 自分の力で何かをしようとせず、神の摂理に全てを委ねた。
彼は過去 主が祈りに答えてくださったことを思い出し、辛い状況の中でも、神の主権的計画にすべてを任せた。
【 第1ヨハネ5:14-15 】
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
律法に対する正しい理解は正しい生活の根拠になる。
それで詩人は主の助けがないと主のことばを正確に理解できないことを悟って祈った。
主のことばが理解できるように主の助けを求める祈りは私たちに必要である。
詩人は主のことばを自分の行動の基準にし、意欲的にそれを守ることを決心した。
みことばを正しく守るためにはそれを律法的に義務的にするのではなく、心の中心からの自発的な従順が必要になる。
文字通りに守ることだけに関心があると、律法主義に陥る危険性がある。
【 詩篇119:29-32 】
私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。
私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。
私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。
私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。
ここでの広い心とは、苦しみから解放され喜びと幸せが満ちた心の状態を意味する。
このような祈りを主は聞いて下さる。主が聞いて下さる。
真の祈りとは、悲しい状況の中でも 最後まで忍耐しながら呼び求めることである。
人間は状況を見て恐れたり絶望したりする。
しかし苦しい中でも、みことばに立って祈るならば問題は解決されていく。
仰せの道を走ることは、さらに敏速に活動的に積極的にみことばを守りながら生きる決心を強調するためのものである。